【109】京都の秋 2006 その2             2006.12.05


  − 大河内山荘・常寂光寺・トロッコ列車・ニ尊院・祇王寺・滝口寺・清涼寺・宝筐院−


 午前9時、嵐山の市営駐車場に着いた。すでにたくさんの車でごった返しているかと思いきや、予想に反してこの時間に駐車場に入っている車は10数台ほど…。先日の土曜日の混雑がウソのようである。
 今日のメンバーは、お馴染みヤスエとその娘の沙也加、そしてその友人の鎮西清和(きよか)ちゃんの4人である。
 鎮西という名前を聞いて、章くん、「鎮西八郎為朝の子孫?」と冗談交じりに聞いたら、「ハイ、そうです」と言う。「我が家には清和天皇以来の家系図があって…」と言うから、ホンモノのやんごとないお姫様である。
 日本人なんて、徳川家でも家康から10代もさかのぼれば、観阿弥という諸国を流浪する芸妓人であったという程度で、下々のものでは家柄や育ちなど自称以外のナニモノでもない。しかし鎮西さんは、皇室縁りの名家である。


 そのおひい様に、「そこ、左や…左…」などと、世が世ならば刀の錆となるであろう無礼な口を利きながら、嵐山・嵯峨野散策の第一歩が始まった。
 まずは、天竜寺横の竹林を抜けて、往年の名優、大河内伝次郎が30年の歳月をかけて造った別荘「
大河内山荘」へと向かう。


← 大河内山荘から 嵐山の大悲閣を望む


   大河内山荘から 東山遠望。京都の町並みの
   向こうに 比叡山の山頂が見える ↓
 保津川を見下ろす、洛西の小倉山に、大河内伝次郎34歳から30年間をかけて造営した6000坪の大庭園…。

 「僕も東映に入っていれば、これぐらいの別荘を持てたけれど、プロゴルフアーになろうかと思ったものだから…」と言う章くんの与太話に、「まだまたこれからですわ」と、おひい様はどこまでもお優しい。

 

 大河内山荘のあとは、嵐山駅から
トロッコ列車
乗って保津川渓流沿いの紅葉見物…。片道20分の列車で往復した。


← トロッコ列車。1時間に1本の運行。


 保津川を下る屋形船。トロッコ列車で亀岡へ行き、
この船に乗って下ってくると、3時間かかると聞い
て、今日のところは断念           ↓





 旧JR山陰線の線路をそのまま利用している嵯峨野〜亀岡間の20分は、山の紅葉と保津川の渓谷美とを味わうことが出来る。列車は、途中の絶景ポイントで停車してくれるサービス付き。車掌さんの生オケ(往きは『北の宿から』、帰りは唱歌『もみじ』を熱唱してくれたが)は過剰サービス…。お聞き苦しいものを、おひい様のお耳に入れてしまった。
 今、横を走るJR線は、同じ区間を(半分はトンネルだけれど)3分で走る。

 



 トロッコを降りて徒歩5分…、慶長元(1596)年日蓮宗大本山本圀寺16世の日禎上人が隠棲した庵「
常寂光寺」がある。


← 茅葺きの仁王門。
   左 沙也加、右 清和おひい様


         









   
              
            
↓ 常寂光寺 境内 →








 日禎上人に、この小倉山の土地を寄進したのは、保津川の開削で有名な豪商角倉了以である。寺の堂宇が整備されたのは元和年間(1615〜1625)。重文の多宝塔は元和6(1620)年に建立された。
 この多宝塔、さらに裏手の山に登り、上から見ると紅葉の海に浮かぶ様が格別に美しい。

  

 
  ↑ ニ尊院の中庭 ↓

 仏がお住まいの浄土のような美しい光射す地…寂光浄土をあとにして
、向井去来の庵「
落柿舎」を過ぎ10分ほど歩くと、本尊に釈迦如来と阿弥陀如来のニ尊をお祀りする「ニ尊院」に着く。


 
中門前のモミジ ↓  フォトコンテスト応募「二人旅」  









































 
祇王寺へ向かう小道の途中のお休み処で、「にしんそば」を食べた。おひい様にも「山菜そば」をお召し上がりいただいた。


 『入道相国、一天四海を、たなごころににぎり給ひしあいだ、世のそしりをも はばからず、人の嘲をもかへりみず、不思議の事をのみし給へり。たとへば其頃、都に聞こえたる白拍子の上手、祇王、祇女とておとといあり。… (平家物語 巻一 祇王)』

 時の権力者、平清盛に見出された祇王は、また仏御前に心を移した清盛によって捨てられる。21歳の若さで尼となった祇王が、母、妹と3人で身を隠した庵が、この地であった。


『 かくて春過ぎ夏たけぬ。秋の初風吹きぬれば、星合ひの空をながめつつ、天の戸わたる梶の葉に、思ふこと書くころなれや。夕日の影の西の山の端に隠るるを見ても、日の入りたまふ所は、西方浄土にてあんなり、いつかわれらもかしこに生まれて、ものも思はで過ぐさんずらんと、かかるにつけても、過ぎにしかたの憂きことども思ひ続けて、ただ尽きせぬものは涙なり。(同) 』


      
↑ 経を読み、四季を愛でて 祇王が過ごした庵 →


 やがて仏御前も世の無常を感じ,尼の姿となってこの寺を訪れる。4人は、朝夕、仏前に花と香を供えて読経の毎日を過ごし、往生の素懐を遂げたということである。
 小さな庵内の仏壇には,大日如来を中心に祇王・仏御前・母刀自と妹祇女の4人の女性、それに平清盛の木像が祀られている。


   

 その隣り、石段を10段ほど登ると、やはり平家物語に描かれる「滝口入道と横笛」ゆかりの寺、「
滝口寺」がひっそりと佇んでいる。

          
滝口寺の階段 →


← 滝口入道と横笛の像を安置する
  小さな本堂


 『斉藤滝口時頼はその素養を見込まれて、平家の一門に入る予定の若武者であった。しかし、白拍子の横笛の舞を見たことがきっかけで、彼女と相思相愛となる。もとより、親は許すはずもなく激怒…。時頼は出家して「滝口入道」と名乗り寺に入山する。
 
横笛は、入道の所在を聞いて訪ねて来たものの、滝口は「私は出家した身、そなたのことは知らぬ」と居留守を使い追い返してしまう。世をはかなんだ彼女は、出家して法華寺の尼になったとも、大堰川に身を投げたとも伝えられている。滝口入道は、のち高野山に移って高僧となった。』
 

 

 滝口寺から10分、「嵯峨釈迦堂」(さがしゃかどう)の呼称で人々に親しまれている
清涼寺へ…。
 
毎年3月15日夜には、豊作を祈願して参道や境内にたくさんのお店が並び、人々が集うなか、「お松明」とよばれる火祭りが行われる。昼間は、嵯峨大念仏狂言が境内の舞台で催され、夕闇が迫るころ、朗々と続く続経のなかで、三基の大松明に火が点けられて、春浅い空の闇に炎と火の粉が舞い上がる。
 
        
  
  ↑ 本堂(釈迦堂、元禄14年(1701)再建)、
      安置されている釈迦如来像は国宝



← 堂々たる仁王門。
 1776年再建。金剛力士像 は室町後期のもの。



       




 境内の甘味処「大文字屋」で嵯峨野名物「あぶり餅」を食べて休憩。この餅、食べることで病気・厄除けの御利益があるとされている。


           
清涼寺の外塀にかかるモミジ →


 お餅を食べて元気になったところで、西隣の「
宝筐院(ほうきょういん)」へ…。

    

















































 宝筐院は、善入山と号する臨済宗の寺。平安時代に白河天皇により創建され、室町幕府二代将軍足利義詮によって伽藍が復興された。足利氏歴代の崇敬を得て栄えたが、室町幕府の衰亡と共に寺も衰微した。
 現在の堂宇は、明治時代以降に再興されたもので、本堂には、十一面千手観世音菩薩を安置している。
 境内には、貞和4(1348)年、四条畷の合戦で戦死した楠木正行(まさつら)(正成の子)の首塚と伝えられる五輪石塔と、義詮の墓と伝えられる三層石塔がある。南北朝時代のライバルがともに眠っているところは、時の氏神のなせる業を感じて面白い。




 
↑ 境内は 赤・黄・緑の錦絵。


  文字通り、紅葉のトンネルだ →


  















   

 市内へ戻った頃には、辺りにはすっかり夕闇が迫っていた。
 12月も10日近くなって、町はクリスマス・イルミネーションが溢れていた。




         
ホテル・オークラ京都のイルミネーション →


 今年も、あと20日余りである。「今日の反省会を兼ねて、忘年会をしないといけないですわね」と、おひい様、章くんに一日付き合って、かなり下々のペースになってきた。


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